「ぶっこわしてよ」という言葉で幕を閉じるドレスコーズの新曲『ミスフィッツ』。
タイトルを見たとき、毛皮のマリーズ『ルー』を思い出しました。今回もきっと、曲中に『ミスフィッツ』というバンド名が登場するのだろうと。
『†』という新しいアルバムをざっと見ると『ヴィシャス』で始まり、『ミスフィッツ』で終わるし。
だが違った。『ミスフィッツ』は名詞ではなく、ぼくら自身を指す言葉でした。
『ミスフィッツ』とは、「はみ出し者」「うまく適合できない人」「社会不適合者」のこと。
志磨遼平さんの著書『ぼくだけはブルー』を拝読していたので、『ミスフィッツ』の意味を知ってようやく歌詞と繋がりました。
■ ミスフィッツとは誰か。『ぼく』が輪からはぐれる理由
ぼくは きっと ちがってる
なぜか ほら はぐれてる
「なんとなくちがう」ではなく、「きっとちがう」。思い返せば、違和感はいつも昨日今日のものではなかった。昔から他人との違いや、周囲との価値観や行動が違う事で、いつの間にか輪からはぐれてしまっている。
どうやったって ひとりぼっち
それが ぼく ミスフィッツ
わからないでしょ ばかみたいでしょ
努力すれば輪に入れるのではなく、どうやったっても独りになってしまう。
そんなぼくは ミスフィッツ(はぐれもの・はみ出し者)。
『mis』は「誤った」「間違った」「不」を付け加える否定の言葉、
『fits』は「合う」「適合する」という意味、「服がフィットする」とかの意味かな。
つまり、『ミスフィッツ』とは『うまく適合できない人』。
フィットしている人たちにとって、僕の在り方は理解不能で、きっと滑稽にすら映るんだろう。
■ 「胸がふるえる」のはなぜ? 心の感覚の繊細さ
また ひとり あぶれてる
胸が ずっと ふるえてる
またぼくだけがひとりだけ輪から外れてる。
ひとりぼっちで周りから浮いている。
胸がずっとふるえてる理由はいくつもの可能性がある。
・拒絶に対する不安。はぐれてしまうのはいつものことでも、やはり傷ついてしまう自分もいる。
・過剰適応しようとする感受性の過敏。気を遣いすぎて、社会的な正しさを常に確認しながら心は疲弊していってるのかもしれない。
・希望。それでも自分を受け入れてもらえるのではという願い。
・その全ての感情を行ったり来たりする揺れ動き。
「ぼく」は周囲から疎外感を感じているし、自分でもどうしようもないことにも気付いている。
■ 「きみもミスフィッツ」と繋がる瞬間
咳をしたって ひとりぼっち
きみも そうか ミスフィッツ
つまらないでしょ やるせないでしょ
体を壊していても周囲には誰もいない。
咳をする病に罹患しても独りで乗り切った人もいるでしょう。
ここで「ぼく」だけでなく「きみ」も、同じひとりぼっちの存在として繋がる。
志磨さんと出会えた、見つけてもらえた感覚。
日々のつまらなさ、やるせなさ、ネガティブな気持ちをロックンロールを通して出会った。
■ 「けがれたただしさ」によって奪われる未来
けがれた ただしさに 未来がうばわれて
たとえば ぼくに ああ なにかあっても
けがれたただしさ。
愛想の良さ、協調性、男らしさ女らしさ、年齢相応であること、学歴、職歴、コミュニケーション能力など、
社会から強要される外向きの「正しさ」。
その能力が備わっていない者の未来は無くなってしまうのか。
例えばぼくに何か特別なものがあったとしても未来は与えられないのか。
志磨遼平さんのバイト話を思い出してしまいます。
■ ディーバとキング。
負けなら みとめない
かくしてる ハートは
いかにも こう見えて ディーバさ
敗北は認めない。
「かくしてるハート」とは、
気を遣いながら感情をすり減らし、社会に合わせようとしている「ぼく」のこと。
だからこそ、心は閉ざされてしまう。
いかにも社会からはぐれているように見えるでしょ。こんな風に見えるけど、心にはディーバがいる。
ディーバとは女神、歌姫といった意味があります。
志磨遼平さんが心にかくしていたディーバが誰かについては後ほど触れたいと思います。
つまり、
ぼくが社会的にはぐれた人というのは認めるけど、それは敗北ではない。なぜならぼくの心は位が高い、とか、誇り高いんだよ。
といった意味になると考えます。
■ 「ここにはいれない」その理由
くだらない わらえない ここにはいれない
誓えない 守れない だれともいれない
自分の教養や感性の差。どうでも良い内容の話はくだらないし面白くないからここにはいたくない。
決め事も守れないから、誰かと一緒になるとか、何かを誓って共に生きるなんて事もできないんだろう。
自分がいた環境の人々も合わない、恋愛をしても結局はこの性格のせいで離れてしまう。
■ 壊して、新しく始める
なつかしくとも ぶっこわして
あいしてるすら ぶっこわして
人が大事に思う価値観、懐かしさや愛すらも、対象が他人であるため自分がはぐれてしまう理由となってしまう。
例えば地元などの懐かしい場所、過去の恋愛、もしくは親からの愛情すらからも離れる。
縛られるのであればその形式もぶっこわしてしまおう。とらわれず、新しく始めるために。
■ 大人になった“ぼく”でも
おとなの みにくさに いつしかつかまれて
たとえば ぼくに もう なにもなくても
楽曲の一番では、大人のけがれた正しさやルールにうまく乗る事ができずに未来を無くしてしまいそうだった。
二番では、ぼく自身が社会人となって社会のルールに従う大人になってしまっても。と時間的な経過が見られます。
以前のはみ出し者のぼくではなくなったとしても。
■ ディーバとキング
負けなら みとめない
のこしてる カードは
いかにも こう見えて キングさ
以前の僕ではなくなって、いかにも社会に適応しているように見えるでしょ。こんな風に見えるけど、以前の僕から見て敗北じゃない、心の核ではキングさ。
ぼくの心は位が高い、とか、誇り高いんだよ。
といった意味になると考えます。
■ なぜ『クイーン』でなく『ディーバ』?
ここでひとつ気になる事があります。
「ディーバ」と「キング」
どちらも誇り高い象徴であるとして考察しました。
男性と女性の両方の価値観を違和感なく持っている志磨遼平さん。
過去作の似てる表現として、『コミック・ジェネレイション』では「キング」と「クイーン」がありました。
今回はなぜ「クイーン」ではなく「ディーバ」なのか、志磨遼平さんの著者や発言から考えると、
・ディーバ:美輪明宏さん
・キング:忌野清志郎さん
憧れと誇りの原点であり象徴であるとも読み取れます。
■ 「ぼくをぶっこわしてよ」その先に残る『何か』
ぼくをこのまま ぶっこわしてよ
ぼくをこのまま ぶっこわしてよ
かつてのパンクは社会や古い価値観を壊せと叫んだ。
だが、この曲が壊そうとしているのは、型としての自分自身なのかもしれない。
そして壊れたあとに残るもの。
それが「ディーバ」と「キング」。
それは、自分の誇り・美学
誰にも奪えない核とも言えます。
アルバム『†』はレコーディングにあたって、メンバーに「これからデビューするバンドのデビュー・アルバムというつもりで演奏してください」と伝えたそうです。
原点である美輪明宏さんの著書、紫の履歴書と忌野清志郎の魂を胸にし、また新しく始めようとしています。
THE BLUE HEARSの『月の爆撃機』で
ヒロトも同じような自分自身の核について歌っています
ここから一歩も通さない
理屈も法律も通さない
誰の声も届かない
友達や恋人も入れない
■ 楽曲『ミスフィッツ』とは
『ミスフィッツ』は、孤独、孤高であることに誇りを持つ者への楽曲。
そんなロックンロールが、私たちの時代でも鳴らされています。
志磨遼平さん。
言葉と向き合い、孤独と対話し、著書を経て放たれたこの一曲は
とんでもないロックンロールです。
最高です。